新しい自分、大切な人

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* * * * *


 4月に入ると、あの時溢れかえっていた団体の若者たちはみんな卒業していったから、学校は急激に空き始めた。 休憩場所も、今ではがらんとしている。私は、一度も入ったことのなかったその教室に入ってみた。 テレビがついている。何らや有料の音楽番組らしい。自販機や、漫画棚やテレビゲーム、パソコンまで置いてある。 なるほど、みんながここに来たがる理由がやっと解った。ふと目をやると真正面に大きな窓、そしてその窓に沿うように木製の机があった。小さな椅子も等間隔に置かれている。 私はその椅子に座って、窓から外を眺めた。そこから見える景色は、広い教習場。すぐ目の前を、綺麗に塗装された教習車が次々と通り過ぎていく。 私は、あっ、と思った。ここから、彼が見える。技能教習をしている彼の姿がばっちり見えるじゃないか。何だか新しい居場所を見つけた様で、私は嬉しくなった。 それからしばらくの間、テレビから聞こえる切ない歌声をぼんやり聞きながら、目の前を何度も通り過ぎる彼の姿を見ていた。楽しそうに笑っている彼の声は、私には聞こえない。 音消されたビデオを再生してるみたいで、何だかもどかしかった。

 もうすっかり雪は溶けて、陽も長くなった。教室をつなぐ通路も、少し冷んやりする程度になっていた。 ようやく、いつもどおりの学校になった感じ。私の教習もスムーズに進み、残すところあとちょっとだ。彼と過ごせる時も、あとちょっと。 日に日に増していく焦りと彼への想いは、ごちゃごちゃに入り組んで私を追い詰めていく。

 通路を歩いている。向こうから、教習を終えた彼が歩いてくる。私は、すれ違うということが切なくてたまらなかった。 すれ違っても、何も起こらない。目が合っても、会話はない。彼が私をただの生徒としか見ていない事実が、その度に私に襲いかかってくる。 彼との距離が縮まるまさにその瞬間、私と彼は実は一番離れた所にいることに気づかされるのだ。


 その日は教習が一つだけで、急に時間が余った私は「あの場所」で時間をつぶした。窓際のあの場所。 今日も春らしい晴天。暖かい日差しが差し込んできて、最高に気持ちが良かった。彼は今日も場内で生徒の指導をしている。 教室には誰もいなかったので、大好きな歌を小さく歌いながら、頬杖をついて外を眺めていた。
 今日も彼は笑顔。隣に乗っている女の子も、満面の笑み。本当に幸せそうだ。 好きな人の笑顔を見るって、いいことだなと思う。やっぱり私には、こうやって遠くから、彼の笑顔を見ているしかないんだと思った。もう、身動きが取れない。 今ここで気持ちを伝えれば、彼の笑顔は凍りついてしまうんだろう。後戻りも出来ない。この気持ちを、無かったことになんて出来ない。 私は、時間が過ぎるのをただ待つだけにしようと決めた。この気持ちも、いつかは薄れていくのだろう。


 教習場の前の通りにある桜が、もうすぐ咲く頃だった。そんなある日突然、私にやってきたのは彼の技能教習だった。 教習車で待っていると、何故だか心臓がドキドキしてきた。変な第6勘が働いたのか。私の教習車に乗り込んできたのは、なんと彼だったのだ。 私はあまりにびっくりして、彼の顔が見れなかった。すぐ隣に彼が座っている。緊張しすぎて、左半身が感覚を失っているみたいだ。
 その日は、自主経路設定で、海沿いの道を走ることになっていた。ただでさえ慣れない運転をしなければいけないのに、隣に彼がいると思うと絶対、平常心でいられない。 でも…

 これが最後になるかもしれないと、頭の中で何度も繰り返した。
 彼と、こんなに長い時間一緒にいられるのは、もう無いんだろう。
だからといって何をするわけではないのだけど、何でかあたしは泣きそうになった。気持ちを伝えることは出来ない。だけど、このままで終わりたくない。 きっとこれは神様がくれた最後のチャンスだ。勇気を出して、素直になろう。

 教習はあたしの気持ちをよそに、いつもどおりに始まった。彼が説明を始める。
「今日は自主経路だけど、まぁいつも通り道順指示しちゃうから、心配しないで運転してねー」
いつも教壇の上から聞いてた彼の声が、耳の先で聞こえる。彼の一言一言が、私の心臓を早めていく。 それと同時に、相変わらず適当な人なのがおかしくて、やっぱりこの人はいいなぁと思ったりした。 学校を出て、国道を走り抜ける。しばらく会話がなかったから、私は少し焦った。「勇気、勇気。」何度も言い聞かせて、やっと言葉を発した。
「宮越さん」
「んー?」
「この学校に来てどのくらいになるんですか?」
とにかく頭に浮かんだことを喋った。彼は、次車線変更ね、と言ってからこう言った。
「んーと、3年前かな。今25で22のときだから」
私は、その言葉を聞いて驚いた。25歳だったのか。しかも、22歳で教官になったんだ。
「若いですね」
思ったことを素直に言い過ぎた。彼は、ははっと笑って、何歳だと思ってた?と聞いた。
「30歳くらい?」
「えっ!まじかー。そんな風に見えるんだー。ショックだなー」
そう言った後、持ち前の整った顔をくずして、笑顔になった。この顔だ。私の大好きなこの人の笑顔。 いつも他の子に向けられていた笑顔が、今目の前にある。私はそれだけで、もう泣きそうだった。
彼は、何かちょっと考えてから私にこう言ってきた。
「いつもあの教室の窓んとこに座ってたでしょ」
私は思わず「えっ」と言ってしまった。彼は知っていたんだ。私があそこにいたこと。私は、今までの長くて辛かった想いがこの時間に報われていく様な気がして、 急に力が抜けてきてしまった。必死に気持ちを抑えるあまり小さくなった声でこう言った。
「見てたんですか?」
「うん。ていうか、何見てるんだろーって思ってた、いつも」
「…一生懸命指導してるみなさんを見てたんです」
「そっか」
彼との会話は、弾むわけでも、盛り上がるわけでもなかった。けど、こういう他愛もない言葉が、私にはとても大切なものだった。 話していくうちに緊張がとけてきて、私はだんだんと平常心を取り戻した。目的地の港も、すぐそこまで見えてきていた。
 私はある一つの考えが浮かんでいた。「彼との思い出を残そう。」私は頑張って明るい子になろうと決めた。最後だけでも、彼とできるだけたくさん話がしたかったから。 今まで嫌と言うほど見てきた、彼と女の子たちの姿。彼女たちは、みんな明るい子だったから。 たとえそれが本当の私ではなかったとしても、明るいということがどういうことなのかもはっきりしていなかったけど、とにかくこの時間を無駄にしたくなかった。 友達がいなくても、一人でも大丈夫。そう言い聞かせて、私はこう言った。

「海に行っていいですか」

 彼は、海?と繰り返した。
「そう。みんなには内緒で」
夕暮れの港が、目の前に現れた。目的地についた私たちは、いったん車を路上に止めた。彼はしばらく考えてから「少しだよ」と言ってくれた。 海が一望できる展望台まで、少し急いで走った。夕方の太陽は、日中と比べて沈むのが早く感じる。さっきまで上の方にあった夕日は、あっという間に海に寄り添っている。

 4月とはいえまだ寒い時期で、潮風が強い日だった。あたしは精一杯“明るい子”を演じた。
「宮越さんも降りてみて!」
「そうだな。…っていうか結構寒いなー」
展望台といっても、ただ丸く取り付けられた台があるだけ。丸太の柵が、周りを囲っている。 私はそこに寄りかかって、少し申し訳ない気持ちになりながらそっと彼を見てみた。

 夕日に照らされオレンジ色に染まった髪が、風でなびいている。初めて見る彼の横顔はあまりにもきれいで、もう少しで想いが溢れるところだった。 こんなに素敵な景色は今まで見たことが無かった。私は、感情を抑えるのに必死になって、涙を堪えることをおろそかにしてしまった。 頬を、涙が伝った。やばい、気持ちがばれてしまう。私は焦って涙を拭いた。それでも足りずに、私は顔を両手で押さえて、彼に背を向けた。
「どうした?」
彼が、私に気づいて顔を覗き込もうとした。私は焦って、さえぎる様に答えた。
「目にごみが入ったの。マスカラとれちゃったから見ないで!」
「あ、ごめん」
白々しいいいわけだ。後ろで彼がどんな顔をしているのかが気になって、急いで涙を拭いた。そして静かに振り向いた。
 彼は、私に背を向けて立っていた。「もう大丈夫?」まるで少年のようなことを言っている彼が、とても愛しい。
「もういいですよ」
彼がこっちを向いたとき、私は最高の笑顔で答えた。彼に始めてみせる、私の笑顔。彼に届けられて良かった。
 それから彼は、大きく両手を伸ばして、大きなあくびをした。それから、あの無邪気な笑顔でこう言った。

「いやぁ〜気持ちいいなぁ。これ他のみんなには内緒だからな」

この人に出会えてよかった。本当にそう思った。この言葉は、この先覚えていられるだけ覚えていようと自分に誓った。 そうして誓った後、静かにお別れの言葉を告げた。

「なんか良かったな。このまま学校終わるのも寂しかったんで、最後にいい思い出が出来ました。ありがとうございます」


 今までのすべての気持ちを込めて。精一杯頑張った自分に対して。ありがとうが言いたかった。彼にどのくらいの気持ちが届いたのかは、わからないけど。

 この瞬間に、あたしの春の恋が終わった。
 静かにやさしく終わった。




 初めての学科を担当した教官。初めてその学校で目が会った人。女好きで、馴れ馴れしくて、興味のある人にしか自分から話しかけない男。でもとても魅力的な男。 彼は、とても不思議な人だった。そして、素敵な人だった。あの学校に通った女の子はきっと誰もが、彼を好いただろう。 そして、ある女の子は一緒になって笑い、ある女の子は友達のように親しくなり、ある女の子は、切ない恋をしたんだろう。
 彼に出会って、私は大きく成長したと思う。新しい自分を見つけられた。それはとても素晴らしいこと。問いかけても答えてくれなかった自分が、 彼とであったことで素直になったような気さえしてくる。彼は私にとって、自分では見えないところを映してくれる鏡みたいな存在だったのかもしれない。私は、彼がくれた新しい自分を、ずっと守っていこうと思った。


 あの年の春、好きだったあの人。軽くて馴れ馴れしくて女好きな男。
彼は、私の大切な人。




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