新しい自分、大切な人
1
「好きなタイプは?」
そういう質問があれば必ずこう答えてた。
「優しい人」
でも、本当はそうじゃないってことに、彼と出会ったことで気がついてしまった。
あの年の春、好きだったあの人。
どこからどう見ても「軽くてなれなれしくて女好きな男」だった。
だったのに。
* * * * *
「それでは教室は第5教室になりますー」
受付の女の人が笑顔で言った。今日から通うことになる自動車学校。自分で「通いたい」と言い出して、親に無理を言ってやっと通えることになったその日。私は最高に機嫌が悪かった。
私は玄関を入って唖然とした。そこには異常なほどの人数の生徒が溢れ返っていた。それはもう、‘人ごみ’という表現がぴったりなくらい。
後で知ったことだが、今はちょうど1年の中で一番混む時期らしい。このタイミングで入校した私は本当についてなかったと、つくづく思う。
息をするスペースもないような埋め尽くされた空間で、右も左もわからない状態。もう、私はこれだけで嫌気がさしていた。
休憩場所と呼ばれているはずの教室でさえ、所狭しと高校生や金髪のキレイなお姉さんたちがいて、大声でおしゃべりしている。
とても休憩できそうにない。私はここでやっていけるだろうか。そんな疑問が頭から離れない。ここには友達も誰一人いないのだ。情けないが、私は一人では何も出来ないような人間だった。
友達が隣にいる時は「明るくて話しやすい女の子」になれるのだが、一人になると、ねじが1本抜けたように「無口でおとなしい女の子」になってしまう。
かといって、友達に依存しているのかと言われると、そうでもないのだ。私は自分のことが、いまだに良くわからないでいた。
平年より若干寒さが厳しい2月。雪国ならではの積雪も、今年は酷い。窓から外を見ると、除雪機が絶え間なく働いている。
夕方4時になると、外はすでに真っ暗になった。やけに明るく光る天井の蛍光灯が、「初めての場所」の雰囲気を助長しているように見えた。
校舎はとても古く、造りが何だかおかしい。受付のある建物と、教室がある建物は別々になっている。受付を終えてからいったん外に出て、通路を通って教室に行くらしい。
しかし、通路には肝心のドアがない。教室が並ぶ廊下の空気は、外の凍える寒さと直結していた。寒い。廊下を歩きながら吐く自分の息の白さに不満を募らせつつ、第5教室へ向かった。
第5教室までの距離は、なんだか長かった。
教室に入ると、いっせいにみんなの視線が集まった。あぁ、嫌な感じ。私は気にしないフリをして、斜め下を見ながら空いている席に座った。
何処からともなく大量の視線を感じる。何かがおかしい。私は、ふと横を見てみた。隣に座っている男子は、何やら教科書を読んでいる。手にはマーカー、消しゴム、シャーペン。
これはもしかして。私の予感は的中した。
「もしかして案内の方ですか。ここじゃなくて、第4教室ですよ。」
チャイムが鳴って教官が入ってくると、私を見つけるなりこう言ってきた。一体何なんだ!私は何だか集中攻撃を受けているような気持ちになってしまった。
物珍しそうな目で見られながら、「案内しますよ」と言って足早に出てゆく教官のあとを追う。ふと黒板を見ると、隅のほうに“検定”という小さい文字を発見した。私はひっそりと主張しているその文字を少し恨めしそうに横目で見ながら教室を出た。
案内された教室に行くと、さっき私の入校手続きをした受付の女の人が必死に謝っていた。どうやら教室を間違えていたらしい。
この学校はなんて緩いんだ。私の不安は一向に消えない。私は、頭を上げ下げする彼女から視線を上に上げてみた。するとそこには、若い男の教官が見えた。
一発で思った。「この人は、絶対生徒に好かれてるな。」よくわからないけど、直感でそう思った。きりっとした顔立ち。優しい目。さらさらでほのかに茶色い髪。
外見はよくいる「かっこいい先生」タイプ。まじめで誠実そうで、努力家。そんな感じがしたのだ。
でもよく見てみると、教官用スーツのジャケットボタンを全開にし、しかも、片手をポケットに突っ込んで、もう片方の手でファイルを持ち、それを肩に乗せている。
何処となくだらしない感じもする。何だか不思議な人だと思った。そして私はというと、彼を見てほんの少しほっとしていた。
この初対面の男の人に、なぜか安心感を持ったのだ。それは、私の未来を予兆するものだったのかもしれない。
彼は受付の彼女に「大丈夫ですよ」と声をかけ、私に教室に入るよう促した。言われるがままに教室に入ると、他にもう2人、入校する生徒がいた。
どちらも下を向いて携帯電話をいじっている。その、真ん中の空いている席に座って、分厚い上着を脱いだ。教室の中は、廊下の寒さに対抗するかのように暑かった。
彼の授業は、終始穏やかに進行した。何の変哲もない、普通の授業だ。
そんな中私は、他の2人の生徒がずっと下ばかり向いているのを気にしていた。いつの間にか彼に申し訳ない気持ちになっていたのだ。いらない神経を使うのは私の悪いところだ。
2人の変わりに、私は授業中顔を上げて、彼の言葉を聞き続けた。でも、そんな事をしても何もならないことも知っている。ぽつんと4人だけの教室は、独特の空気が流れていた。変な一体感がある。私はその空気に、少し惑わされそうになった。
彼が一生懸命説明している横で、私はぼんやりと彼の行動を追っていた。時々面白い冗談を言って笑っている。私は、そんな彼を、少し離れた位置から眺めていた。
彼は、時々顔を上げて生徒を見渡したりする。顔を上げていた私は、バッチリ目が合ってしまった。「あ、合っちゃった。」少しドキドキして、目をそらした。
授業中教官と生徒の目が合うことなんて、たぶん早々ないことだと思う。私は彼が生徒の顔を見ていることに、少し感心した。
彼はどんな人なんだろう?そんなことを考えていたら、あっという間に授業は終わっていた。教習の仕組みなどはいまいち解らずじまいで、結局私は心配事を家に持ち帰ることとなってしまった。
* * * * *
それから1ヶ月は何事もなく毎日が進んでいった。いや、何事もなかったわけじゃない。あの後、この学校のシステムを理解するまでに半月かかってしまった。
知り合いゼロの中「無口でおとなしい女の子」としてしか過ごせない私は、誰にも相談できずに毎日逃げ出したくなりながら教習所に通っていた。
ようやく環境に慣れてきても、まだ一つ問題が残っていた。「休憩場所がない」ということ。相変わらず連日生徒でむせ返る校舎内。昼休みとなっては、その人数の生徒が一つの教室に集結するのだから、
当然入りきらないのだ。私は居場所がないまま昼食をとることも出来ずに、いつも受付の隅にある2人掛けの椅子に座って長い時間を過ごした。
そんな中私が毎日のように目にしていたのは、生徒と教官の親密さだった。とにかく仲が良い。仲が良いというより、馴れ馴れしい、と言った方が正確かもしれない。
若い女の子と、教官。お互いに気兼ねなく話すのはいい事だと思うけど、何だか今の私には痛かった。一人で座る椅子から、彼女たちの楽しそうな声を聞くのが苦しかった。
案内を担当したあの彼も、当然その輪の渦中にいた。あの時直感で感じたことは、やっぱり事実だった。彼は、他の教官よりずっと生徒に人気があったのだ。
女の子たちは、彼目当てで通っているんじゃないか、っていうぐらいいつも彼の周りに集まっている。
そして彼はというと、嬉しそうな顔をして女の子たちを見ているだけじゃく、肩に手を回すわ、頭を撫でるわで、どう見ても女の子に好かれたいと思っているようにしか見えない行動を取っている。
“彼自身”に対する予想は見事に外れてしまった。私はそれを見るのが、一番辛かった。別に彼の持つ特質に期待していた訳ではなし、私は彼に直接関係のある人間ではない。
がっかりしたわけでもない。だけど、何て言えばいいんだろう。もしかしたら、彼がどうのとかいう事ではなくて、彼女たちの性格が羨ましかったのかもしれない。
話したいと思う人に向かって、「話したい」と言える彼女たちに憧れた。
きっと、一種の願望なのだと思う。もっと、勇気を出して生きれたら。あんな風に、素直に打ち解けられたら。
それが形を変えて、私をちくちく刺してるんだろう。私はこの時、もっと強くなりたいと思った。
それから、彼の2回目の学科を受けた。
初対面の時の授業とはまた違う感じがする。彼の本性を知ってしまった今となっては、変な話だけれど何だか彼が健気に思えてくるのだ。
彼はとっても優しい声で、ゆっくり話すのに、時々ヤンキー言葉になったりする。それに思ったよりドジで抜けているところがあるみたいだ。
語尾を延ばす癖も、何度も何度も言う口癖も、何だか面白い。
彼がしゃべっていると、何かあったかいものが辺りを包み込む。それはとても居心地がいいものだった。
相変わらず一生懸命説明している姿がかわいい。一生懸命なのに、少し適当な感じもする。
「だからここは、制限速度60キロということですねー。あ、黒板に書くか。えー、あれ、一般ってどう書くっけ?こう…じゃねぇや。
まぁいいや、いっぱん道60キロ…と。」
やっぱり適当だ。教官がこんなんでいいんだろうか。でも、彼の適当さがあまりにもかわいくて、私は笑いをこらえるのに必死だった。
授業の内容より彼を見ているのが楽しくて、私はつい色んなことを考えていた。
初めて会ったときに感じた安心感だけは間違っていなかったのかなぁ。彼が放つそれを、一番近くで感じられたらどんなに幸せなんだろう。
と、ここまで思ってはっとした。今自分が考えていたことを反復する。“一番近くで感じられたら”。
「好きかもしれない。」私は、いつの間にか始まってしまった新しい恋に、戸惑いを隠せなかった。
というより、確かなきっかけが見つからなくて不安になっていた。あまりにも自然に、突然やってきた気持ちを素直に受け入れられずにいた。
私は、なんてあっけなく人を好きになるんだろう。
その日の夜、いくら考えても答えをくれない自分をもう一度吟味してみた。
私は「優しい人」が好きだったはずでしょ。でも、それこそ確かな証拠はなかった。私は「馴れ馴れしい人」は嫌いだ。でも、本当にそう思っていたんだろうか。
確かに女好きの男は世間一般に見れば嫌がられるけれど…もしかしたら、私はそれがあまり気にならないタイプだったのかなぁ。
自分で言うのもなんだけど、「馴れ馴れしい人」が好きな人は、相当の変人だと思う。だけど、私自身が実際はそうなのかも。
昔の私からは考えられなかった発想が飛び出して、私は苦笑いした。だけどそれはそれで、なんだか新鮮な気もした。新しい自分が少しずつ顔を出してくる。ちょっとずつ何かが変わっていく。
今まで一度も注意して見ていなかった教習手帳を開く。
学科教習のページを探す。今日の日付。あった!“3/16 宮越 学科3”私は彼の名前を初めて知った。宮越。
その2文字がとっても愛しくて、私はその印刷されたゴシック体の漢字を指でなぞった。
それからというもの、学科を受けるときは、心のどこかで彼の足音を待つ自分がいた。教室のドアが開いた時、“教官チェック”をするのが私の癖になっていた。
もちろん技能教習でも彼に当たる可能性はあるのだけど、私は好きな人がいると緊張して焦ってしまうタイプだったから、なるべくそっちではあたらないで欲しいと思っていた。
私の運転で彼を乗せて走るなんて、恥ずかしくて想像も出来ない。絶対何か失敗する。考えるだけで赤面するほどだ。
だから、教室で彼の声をずっと聞いているほうが、私にとっての至福だったのだ。
でも、そうそう当たるものでもない。教官約20人。その中の一人に当たる確立は、決して高くない。
それに、もう一つ悲しい現実があった。彼は顔見知りの親しい女の子としか話をしない。ずっと見ていたから、嫌と言うほどよくわかる。
私はこんな性格だし、彼は関心のある人にしか自分から話しかけないのだから、私と彼との距離が“生徒”と“教官”以上に縮まることはきっとないんだろう。
彼の私生活も、彼女がいるのかどうかも、どこに住んでいるのかも、生徒の私には知る由もなかった。
だからこそ余計に、彼がいとしくてたまらなくなるのだ。私は数少ない彼の情報を元に、必死に彼を追いかけていた。
すれ違う時も、見かけた時も、声が聞こえたときも。
それだけで、たくさん元気が出た。彼が好きだと思ったその日から、私は頑張って学校にいっぱい行った。友達がいなくいても、どんなに一人でも、彼に会えると思ったから行った。
決して報われることはないという条件を、いつも忘れないようにカバンに入れて。
あの時、毎日考えていたこと。
明日は会えるかな。あいさつだけでもいいから、声かけれるかな。
そんな気持ちになっている自分を数年ぶりに見た気がする。
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